ラーメン哲学・入門

第1節 ラーメンをつくるということ

 今や世界に誇る日本の食文化として、確固たる地位を得たラーメンだが、多量の化学調味料を基本とした味構成
が、いまだ主流である。これは、外食産業全般の問題ではあるが、
ラーメン業界の場合、化学調味料の使用に対し、懐疑的な態度を表明しているラーメン屋は、確実に増えつつあるも
のの、極めて少数派であるといえる。
 
 「食」に関わるということ、つまり、人様に食べていただく料理を作り、提供するということは、その料理が、人の体内
に入って行き、血となり肉となる… という、まったく当たり前のことでありながら、大変な恐しさを孕んだ行為である。
人の生命を奪うことすら容易に可能なのであり、ラーメンに限らず、「食」に関わる者にとって、料理を作り提供すると
いう行為の持つ意味の重さは、常に肝に命じておくべきことである。
 ある日、いつものように忙しくラーメンを作りながら、ハタと、この当たり前のことに気づいた瞬間から、ラーメンを作る
ということ自体が、それまでとは、まったく違った意味を持つようになってしまった。生きるために、稼ぎの手段として
始めたはずのラーメン屋という仕事が、いつしか、自己表現、自己実現の場として、私にとってかけがいのないものに
なっていたのである。
 
 安易に、化学調味料に頼るラーメンづくりを徹底的に拒否することで、扱いづらい天然素材との格闘が始まった。試
行錯誤を続けながらも、多くの優れた素材、その生産者との出会いにより、少しずつ味が出来上がっていく過程は、
喜びに満ちていたし、新しい方向性に、戸惑いがちだったお客様の反応が、少しずつ良くなっていくのを感じるのは、
大きな喜びだった。
 
 誰もが安易に始めがちで、世間から低く見られることの多いラーメン屋という仕事だが、やる人間の姿勢次第では、
実り多く、やりがいのある仕事である。ラーメンづくりを、一人一人のお客様との真剣勝負と捉えて店に立つ者にとっ
て、お店は、限りない可能性に満ちた聖なる空間となる。
 漫然としたラーメンの作り手に、堕してはならない。一日何百杯のラーメンを売るということには、何の価値も無い。
どれだけ自分のラーメンを愛し、真摯にお客様と向き合い、良い仕事ができるか、それだけである。そうして作ったラ
ーメンが、お客様に感動を与えることが出来たならどんなに素晴らしいことだろうと思うが、それが可能であるのが、ラ
ーメン屋という仕事であり、ラーメンを作るということだと信じている。

化学調味料に頼らないということ

 化学調味料が、子供の脳の発達を阻害することを知りながら、自分の子供の食事に化学調味料を使う親がいるだ
ろうか。そして、飲食店において、大人の、アカの他人であるお客様にならば、問題無いということになるのだろうか。
安易に、化学調味料に頼ってしまうラーメン屋が多いのは、残念なことだ。
 天然素材のみで美味しさを表現しようとすると、化学調味料を使う場合に比べた場合、素材のコスト、調理の手間
は、格段の違いがある。匙一杯の化学調味料で、一瞬にして完成度の高いラーメンが出来あがるのを目の当たりに
すると、愕然としてしまうが、それでも尚、敢えて天然だしにこだわるのは、両者の旨みに根本的な違いがあるからで
ある。化学調味料漬けのラーメンの「一口バカうま」の強烈な旨みに慣れきってしまった舌にも、天然素材のみに可能
な本当の美味しさとの出会いの感動は可能であると信じている。
 無添加にこだわったおかげで、店は繁盛しても相変わらずの貧乏暮らしである。朝の5時から夜の9時まで、定休
日も仕込みに当てて休まず働いて、開業以来無給とくれば、これはもう狂気の沙汰としか言えまい。それでも、仕事
の充実感は、確実につかんでいる。
これが、化学調味料に頼らないということ、なのかもしれない。
 食の安全性が、なし崩し的に、悪い方向に進んでいこうとしている今、4.5坪のほんの小さなラーメン屋のオヤジ
が、ささやかな捨て身の抵抗を続けていることも、無意味ではあるまい。「玄」の味を支えている全国の生産者たち
が、私など足元にも及ばないほどの無添加へのこだわりで、昔ながらの手間をかけた方法により、素材にトコトンこだ
わって生産を続けている限り、戦い続けなければならない。
 生産性、経済性を追及するあまり、この社会で、私たちは、危険な食材に囲まれての生活を余儀なくされている。し
かし、失われつつありながらも、今まだ、化学調味料に頼らない、ほんものの美味しさは、各地に確実に生き続けて
いるのである。
 我々には、健全なる食文化を、次の世代に伝えていく義務がある。ラーメンという食文化も然り、カネの亡者が作っ
た、化学調味料漬けのラーメンなど、恥ずかしくて、21世紀の子供たちに食べさせてはなるまい。
 21世紀が、ほんものの美味しさが、その価値を認められ続ける時代であることを信じたい。
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